旅する働くセーター吉舎町
はじまりました!
旅する働くセーターkissa編
三次市吉舎町にあるカフェ「kissa」 @kissa_nanokaichi のよしたかさんとあゆみさんに出会い、セーターを託してから、きっとお二人なら、素敵な連載になると思っていました✨
きっとどの街にもすてきな人が住んでいて、日々を営んでおられる。
#Repost @kissa_nanokaichi with @use.repost
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旅する働くセーター kissa編
HOLY’Sさん @kn.holys からバトンを渡されて1ヶ月ちょっと。
いよいよ、というか、
ようやく、はじまります。
旅する働くセーター kissa編。
吉舎町を中心に、
kissaとご縁のある方々に
着ていただきます。
【No.01】
有重 由紀子(ありしげ ゆきこ)さん
ご家族でお米農家を営んでおられる
有重由紀子さん。
有重さんは地元の農産物を加工・販売する
「きさやわた ふるさと味の会」の代表でもあります。
kissaにもいつもふらっと来てくださり、
気が付いたら数時間哲学的なお話をしたり。
「セーターを着た写真を撮らせてください」
とお願いしたのは撮影の二日前くらい。
撮影当日の朝8時半にお邪魔すると、
お餅のパック詰め作業中でした。
柔らかく優しい声でおしゃべりされる有重さん。
丁寧に袋詰めされたお餅には
「もちっ娘」というラベルが付けられるのですが、
きれいに並んだこの真っ白ですべすべなお餅たちは
有重さんやこの加工所のスタッフさんにとって
本当に子どものようにかわいい存在なのかもしれないなぁ。
そんなことを思いながら
撮影後に有重さんが淹れてくれた梅昆布茶をすする
私たちなのでした。
明日への余力を
編み図と楽譜(林央子さんとのことvol.2)
dee’s magazine「Diary」
@deesmagazine の千葉美穂さんから、dee’s magazine 特別版「Diary」届く。
2022年10月3日から11月11日まで40日間、千葉さんのごく個人的な日記なのだけど、ある一時期を集中的に詳しく書くという行為。
こんなにも彩りが感じられるとは。
手のひらに乗る小さな本。
50冊だけ作られるナンバリング。
書き手自ら仕立てられた本とは、なんて愛おしいんでしょう。
私がこの10月、東京出張の際、千葉さんとご一緒した1日についても語られている。
ちょっとこそばゆいような。
千葉さんの目線になって振り返る。
これを読んでいると、自分も日記を書いてみたくなります。
誰かに見せるかも?って目標があったら、やれるのかもしれない。
千葉さんと同じ本を読んでいることもわかる。
よかったよね、、あの本、千葉さん。
「文フリ」というのが、なんだか憧れキーワードなのだ。
ユズリハとユーカリ
今朝、思い出したことを書きます。
病院のフリースペースで、週一で編み物クラブをやっていたことは、前にも書きました。
長く一緒に過ごしたスミエさんは、旦那さまの付き添いで、毎週、編み物クラブに参加してくださいました。
子供の頃から、と言われる牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、その奥に笑う小さな目は、まるでドリフのコントみたいに思えました。
くせっ毛のショートヘア、白髪染をなさっておられ、髪は豊かでしたので、年齢より若く見えました。
結婚して入ったお家では、義婆さん、義父さん、義母さんと、病気の人を常に看続けていたと言われます。
最初は、帽子ばかり編んでおられました。
徐々に、着るものも編まれるようになられ、手順を私が説明すると、鉛筆を握りしめ、目数や段数を書かれるのですが、ノートにグッと顔を寄せ、鉛筆でぐいぐいと書くのです。
お世辞にも綺麗な字とはいえなくて、器用そうでもありません。
私は、そこに6才の、一生懸命字を書く、小さなスミエさんを見るような気がして、愛おしく思えました。
田舎に住む年の離れたお姉さん二人の、曲がった背中を覆うことのできる、前身頃が短くて、後身頃の長いちゃんちゃんこを2枚、編まれました。
子供たちは巣立ち、旦那さまだけを診る生活になられ、やっと自分に目を向けられるようになられたのでしょう。
ピアノで「ドレミファソラシド」を弾くのが夢だと言われました。
私がノートの開きに、鍵盤大の大きさで、白鍵と黒鍵の絵を描くと、嬉しそうにその上に指を置かれます。
ちょうどその時、編み物クラブには、ピアノの上手な女性がおられ、スミエさんに「ドレミファソラシド」の指の運びを教えました。
スミエさんは、「ドーレーミーファッ、、ソラシドー」
「ドーシーラーソー、ファッ、ミレドー」
と声に出しながら練習します。
「小さいのでいいから弾いてみたい」
と言われるので、その日、クラブが終わると、3人で最寄りの電気屋さんに行きました。
小さな2オクターブ半のキーボードなら、5000円からありました。
そこでも、今度は音を出して、スミエさんは「ドレミファッソラシドー」を練習しました。
「娘に相談する」とスミエさんは言って、その日は別れました。
次の週、スミエさんは、娘さんを伴って、キーボードを手に入れたと、嬉しそうに報告してくれました。
「毎日練習してる」
というスミエさんに「チャレンジャーじゃね」と私が言うと、スミエさんは「チャレン婆よ」とイタズラっぽく笑いました。
それから、病院での編み物クラブがなくなって、前にもここで書いたヨシノさんと、みんなが元気な時に、同窓会のようなことをしました。
みんなで手を握り合って元気でいることを約束しました。
2度目は、なかなか叶わず、、みんなの年齢が重なり、外出がだんだん難しくなっていたんですね。。
スミエさんからいただく年賀状の「尚美ちゃんへ」と筆文字は、年々大きくなっていきました。
私は二度、スミエさんを訪ねたことがあります。
一度は、お留守でした。
小さな長屋の表札には、かつては大家族の、子供たちやご両親の名前が連ねられていました。
二度目に会えました。
ピンポンを押して、随分長い時間をかけて、スミエさんの引戸があきました。
大腿股関節骨折をしてから、動きにくくなったと言いつつ、かつての大家族が住まわれていた小さな長屋に、一人暮らしをされていました。
週2日のディサービスの他、ヘルパーさんの来られる日、リハビリに行かれる日と、スミエさんの毎日は、スケジュールでびっしりでした。
片づけられた玄関には、ディサービスで作られた工作や書が飾ってあります。
スミエさんは椅子に、私は玄関のたたきに座りました。
壁に詩のようなのが貼ってあり「これは?」と聞くと、
「自分の歌を作ってみたいってずっと思ってて、
これまで生きてきて思うことを、ディサービスで作ったのよ」と言われる。その歌詞なんだそうです。
私が「聴きたい」って言うと、スミエさんが歌ってくれました。
これまで生きてこられて、お父さん、お母さん、お友達にありがとう、感謝します、という内容だったと思います。
恥ずかしかったりすることなく、スミエさんは真剣に歌ってくださいました。
1番、2番で、終わったけれど、いつまでも聴いていたいと思いました。
それがスミエさんと会った最後です。
電話をしても、留守番電話だったのが、現在使われていない電話になりました。
スミエさん、ユーカリの木は、触るとさわやかな香りがしますね。
鉛筆を削った時の香りに、似ているかもしれません。