もうひとりのKくんのこと(私が学生寮で学んだことvol.9)
もうひとりのK君は野球部だった。
(Kの苗字は、実によくある苗字で、わざわざイニシャルにする必要もないかもしれない。ただ私がバイトした1年間で、学年が特定されるので、やはりイニシャルでいこうと思う。もしこれを当時の寮生が読めば、きっと誰だかわかるはず。)
一浪の一般入試で入学し、指定推薦入試の寮生が多い中、枠外の入寮は狭き門だったようで、その難しさについて、細かく説明をしてくれたことがある。
彼は、どうしてもこの大学のその学部に入りたかったのだ。
推薦校から入学・入寮することがいかに優遇されているか。彼は、その狭き門をクリアしてもなお、歯痒さを拭えないようだった。
自分の実家は他の寮生ほど裕福ではない、これ以上、親に甘えられないから、バイトもする。うちが裕福な家庭の生徒が推薦校故、入寮しやすく、本当に入る必要がある生徒が入りにくい理不尽さを話した。
彼は、誰とも連まなかったし、同室の寮生は留学生だったと思う。野球部の先輩とだけ親しく話した。
私がいつものように、受付で本を読んでいると、K君が窓から覗き「何、読んでるんですか?」と低い声で聞いた。
K君は、谷崎潤一郎が好きだと言う。「谷崎のおすすめ」を貸してくれると言って「痴人の愛」を持ってきた。
「ナオミ」というカフェーの女給から見出した少女を自分の嫁にすべく囲い育てるつもりが、翻弄されるクソ真面目な男の長編小説だ。
ナボコフの「ロリータ」を私は読んでいた。「痴人の愛」は「ロリータ」を彷彿させる。概要はなんとなく知っていた。私があの時、受付でナボコフを読んでいたのかもしれない。
私は、谷崎潤一郎の文章の美しさに引き込まれながら、最後まで読んだ。
K君は、文学部だった。
日に焼けた肌に濃い眉をして、真っ直ぐ人と話す。しっかりと目を合わす。
こちらのK君もきれいな文字を書いた。
気がつくと、K君は私のことを「なおみさん」と呼ぶようになった。
ほとんどの寮生が私の苗字に「受付嬢」の「嬢」を付けて「保里嬢」と呼ぶ中、K君だけが「なおみさん」と呼んだ。それが「ナオミさん」か「尚美さん」なのかはわからない。
ただ谷崎小説の響きを楽しむかのような「ナオミさん」だった。
低い声で。
私はちょっと不思議な気持ちで、いつも返事をしていた。
これは、今うちにある谷崎作品。
私は実家にいた頃、母が娘時代に読んだ岩波の赤本・黄色本(文学全集で、赤が日本文学、黄色が西洋文学。)があったから、読書感想文で、「細雪」を読んだ記憶がある。ちゃんと理解して読んだかは定かでない。
「陰翳礼讃」は、小説とは趣きが異なる。「美」と「日本文化」についてのひとり語りだ。
今、自分への課題図書のような一冊。
K君のこと(私が学生寮で学んだことvol.8)
1年生に2人いたK君の、ひとりのK君は、みんなから下の名前で「K」と呼ばれていた。
人懐っこい性格で、先輩からも可愛がられ、私のことも慕ってくれた。
毎回、受付の前を通る度、何かしらのアクションをするので、一度わかりやすく無視してみたら、「ひどいっ!」と本気で怒らせてしまった。
私はもう二度と、K君に意地悪をしない、と心に決めた。
某ハンバーガー店で、アルバイトを始めたと、K君が私に言う。
バイト先の名札には、赤い◯シールが貼ってあって、出来ることが増えると、青、緑、銀、金とシールが増えていくそう。九州出身の彼は、自分が最初にやるアルバイトは、そのハンバーガー店と決めていたんだと嬉しそうに話してくれた。
夏休みになると、帰省や旅行で寮生は少なくなり、寮内にものんびりとした雰囲気が漂う。
クーラーのない建物では、受付に置かれた扇風機すら貴重品となり、暑さにやられた寮生が変わるがわるに涼みにくる。
K君が扇風機に、テッシュがわりに置かれていたトイレットペーパーを細長く切って結びつけ、電気屋さんにあるみたいにヒラヒラさせた。より涼しくなると思ったのだ。
電気屋さんの細いキラキラしたテープとは違い、トイレットペーパーの細長いのがヘラヘラと舞っているのは、ただ卑猥にしか見えなかったけど、K君は満足そうだった。
ある朝、お腹を空かせて降りてきて「保里さんの好きな食べ物は?」と聞くので「オムライス」と答えると、私にぴったりだと言いはじめ「保里さんはオムライス」と達筆の文字で書いて、受付の壁に貼った。
K君は、お父さんを交通事故で早くに亡くしており、母子家庭だった。彼と親しくする同じ学部の先輩は「Kのお母さんは苦労している」と話した。寮の中では、両親の揃うことが当たり前だったのかもしれない。
K君のお母さんは、よく寮に電話をかけてきて、K君が不在なら「母親の携帯に電話をかけるように」と伝言を残した。
携帯電話がショルダーバックのような頃、お母さんはどんな仕事をしてK君を東京の大学に行かせるまで育てたんだろう。
K君は「あしなが育成会(交通事故遺児育成会)」の集いに行った時のことを、私に話した。皆が親を急に亡くしてからの苦労を泣きながら話す中、自分はあまりに幼く父を失くし、それが当たり前として育ったので、皆ほど泣けない。父親はいなかったけど、祖父母から十分に愛されて育ったので、不足感はないのだと言う。
いつかK君が、ボタンダウンシャツのボタンが取れたからと受付に裁縫道具を持参した。
「保里さんに付けてもらうのは、これが最初で最後。これからはなんでも、自分のことは自分でできるようになるんだ」と言い、ボタンを付ける私の手元を、焼き付けるように見ていた。
秋になり、私が膝丈のウールチェックのプリーツスカートを履いて行くと、朝1番に会ったK君が「わぁ、こうやって」と、くるっと回る仕草をした。あまりにも無邪気だったので、私も言われるままにくるっと回るとプリーツスカートが丸くフワッと広かった。
K君が「うわぁ」と手を叩いた。
私は、ドクターマーチンのレースアップブーツを履いていた。
お正月休みが終わって、年度末を迎える頃、私が別校舎から郵便物の入ったコンテナを台車に乗せて押していると、K君が向こうから歩いて来た。女の子と並んでる。K君は、楽しそうに話しながら私と目線を合わせずにすれ違った。
今まで校内で、どんな遠くからでも私を見つけ呼んでくれるのは、いつでもK君の方だった。
成長した弟が巣立つような気持ちで、私は後ろ姿を見送った。
私は今でも、好きな食べ物はオムライスだ。
ケチャップライスの中身は、いつも有り合わせで、野菜ばかりの時もあるけど、ご飯を盛り、オムレツを焼いて乗せる(もちろんフライパンの中で、オムレツにご飯を巻き込む時もある。)と、それはもう大ご馳走になる。半熟卵でご飯を包みながら食べる。そしてK君の「保里さんはオムライス」を思い出すのだ。
これは、タラコライスのオムライスで珍しくマヨネーズを乗っけた。このレシピにそう書いてあったから。K君の出身地もタラコが名物だった。
K君は、夢だったテレビディレクターになった。いつか九州発の番組を担当して、島津亜矢さんがゲストに登場した時、私はテレビを観ながら島津亜矢さんの似顔絵を描いて、K君に送った。
やさか村ワタブンアートファブリックへ
7月の終わり、編み物クラブのメンバーで、島根県浜田市弥栄町にある「やさか村アートファブリック」を訪ねました。
編み物クラブのキョウちゃんが「みんなで行きたいところがある」と前々から見つけていて、手織り体験もさせていただけるとのこと。クラブの4人で出掛けました。
やさか村アードファブリック「やさか村ワタブン」は、100年前から、京都の西陣織の工場として、全盛期には、ここにある27台の機織り機が全て稼働し、朝から晩まで、地元の女性達である職人さんが、西陣織の帯を織っておられたそうです。
技術の切磋琢磨は言うまでもなく、今でも、和服の新作は、織られた7年先に販売されるとのこと。新しい技術も陽の目を見るのは、7年先。1人1人織った人の名の入った帯は、代々まで残り続けるそうです。
私たちが体験させていただいたのは、さおり織という小型の手織り機で、すでに縦糸が仕掛けてあります。
何台もの縦糸が既にセットされた中から、自分の織ってみたい機を選び、横糸の組み合わせを考えます。
織りの仕組みを習うのに、新作の織られた帯を見せていただきました。
写真には撮れなかったのですが、
帯のお太鼓の部分には、斜めに波打つように青から銀のグラデーションで織り込まれいて、織り目が立体的な模様となり、それは単に縦糸に横糸を織り込む、とは言えない作業の複雑さがあります。
拡大鏡で見せていただいた絽の帯には、縦糸には捻りが入り、横糸が織られています。
テンションを加えた縦糸に、どう横糸を入れていくか、これは拡大鏡で見てもため息が溢れるばかりです。
技術は、海外で真似されたとしても、帯の締め心地が違うのだそうです。捻り織を真似されたとしても、一本の縦糸がピンと切れれば、その海外で織られた帯は、ひとたまりもなく生地が弾け切れるそうです。
生地のことですから、美しいものに仕上げるために、どう調整していくべきか。想像上だけでも、尊敬に値する技術であることは、理解できます。
私たちが体験させていただいたのは、さおり織という小型の織り機で、すでに縦糸が仕掛けてあります。何台もの縦糸の中から、自分の織ってみたい機を選び、横糸の組み合わせを考えます。
近所の小学生が卒業記念で、さおり織機で絵を描くように、弥栄にあるさまざまな木を織り込んだ作品を見せていただきました。
やる気があれば、そんな大作も作れるんですね。
ほんの入口を手取り足取りで体験させていただいた訳ですが、本当に貴重な体験でした。
手織り体験として、一般に間口を大きく広げておられるのであって、
その技術の確かさは、尊敬してもしきれませんでした。
これは、私がその手織り体験の時間で織ったたテーブルクロスです。生地がしっかりとしているので、ファスナーをつけて小物入れにしてもいいなと思いました。
ワタブンの先生の打ち込み「トントン」は、柔らかく、どんな生地を作りたいか、を、この打ち込みの作業の表現として現せるようなのです。
今は、地場産業の蚕を使った、キビソ織りのタオルと、蚕から取れる真綿をふんだんに使った「あったかショール」の生産販売で、持ち得る技術と、現代の生活様式への対応を試みておられます。
地元の暮らしと仕事があって、伝承し続ける営みについて、考える1日となりました。
Tさんのこと(私が学生寮で学んだことvol.7)
原田宗典の小説以来、言葉を交わすようになったTさんは、私とのどんな小さなやりとりも取りこぼさない人だった。
新入寮生歓迎会で、Tさんは誰かの伴奏でアコースティックギターを弾いた。それはとっても上手で、親指まできれいに使ってコードを爪弾いた。
私には、なぜ彼がこんなにギターが弾けるに、プロになろうとしないのか不思議だった。
Tさんに、どんな音楽を聴いているのか尋ねると、次の日、Tさんはメタルの80分テープにみっちりと「Tの好きな音楽」を入れて私にくれた。リバースして聴いても、シーンとする間がいくらもない。私はそのテープを伸びるほど聴いたし、彼がテープと一緒にくれたワープロ打ちの3枚のレポートは、今も持っている。
バンド名とその説明が上から下まで半角文字で2枚に渡り(それはA to Zの並びになっていた)、もう1枚には、カセットテープに入れた曲名とバンド名のライナーノーツが書かれていた。
彼が自分の好きな音について適切、かつポップな文体で、好きなバンドについては「好き具合」まで伝わってくるボキャボラリーに驚いた。
今ならわかる。彼がそんなカセットテープとライナーノーツを作り慣れていたことが。なぜなら今でも、Tさんは自作のリミックスデータを、私に送ってくれるからだ。
Tさんとの話ならいくらでもある。
私が学生寮バイトと掛け持ちで、夕方から大学の目の前の洋風居酒屋でバイトを始めると、Tさんは同じ学科の女の子と飲みに来てくれた。Tさんの友達の彼女のことは、今もよく覚えている。
ブルーのオーバーオールに袖なしTシャツを合わせていて、髪はショートカット。私にもニコニコと挨拶をしてくれた。
その店では「ビール飲み放題」をやっていて、ビール好きの二人はいくつものジョッキを開けた。レジ前で、気持ち良さそうなTさんにどれほど酔っているか「スキップしてみて」と私が言うと、背筋を伸ばし、向こうからこっちへと、Tさんは正しくスキップを見せてくれた。
ある日、Tさんがすごく大好きになって買ったTシャツの着丈を直してほしいと私に言った。
裾を5cmほど切って、三つ折りにして纏ればいい。
簡単に引き受けたものの、Tシャツ生地を寄れないように三つ折りし、アイロンをかけて纏るのはなかなか難しく、次の日、いくらも寝ていないことは隠し、私は何気ない風で、TさんにTシャツを渡した。
私は、母が洋裁を生業にしていたので、きれいな三つ折りがどういうものかわかる。自分の不出来に気付くので、何度もやり直したのだ。
ちょうど通りがかった寮内の掃除を任されている「おかあさん」(みんなにそう呼ばれていた)に、Tさんが私の纏りを見せた。「おかあさん」は、ちょっと上から「あら、上手ねぇ」と褒めてくれた。
「おかあさん」は、みんなに当てにされていたから、若い私がうまくやったことがおもしろくなかったんだろう。いつかそのことを母に話すと、母はそんな風に言った。
次の日は寮祭だった。
3年生の寮長に「友達と一緒に遊びに来てください」と言われた私は、ひとりで参加した。同じ大学の女子寮の女の子たちが招待されて、立食パーティーからはじまったと思う。
Tさんは、食堂で開かれたダンスパーティのDJで、ちょっと高い場所からレコードを回した。
Tさんは、私が直したTシャツを着ていた。ユラユラと揺れる大きめのTシャツのTさんとちょっと目が合って、私もいつまでも踊っていたと思う。
私は軍パンからリメークされた黒いスカートと、Dr.マーチンのブーツを履いていた。
Tさんからもらったカセットテープの中から、自分でCDを買ったマシュー・スウィート。
「腰にくるっての⁉︎」
「一緒に歌える泣きのギター」
ライナーノーツに書かれた言葉が今でも、 Tさんの声で聴こえてきそう。
Hさんのこと(私が学生寮で学んだことvol.6)
Hさんは、Kさんと同室の4年生で、Kさんと同じダンス部に所属していた。
彼ら二人ともが下の名前で呼ばれていることに、寮内での彼らへの敬意を表していたし、彼らのダンススタイルの違いをも感じさせていたと思う。
この二人は、好対照のダンスを踊る。
Hさんのダンスも学祭で、私は見ることができた。ペアダンスだったけど、女性だけでなく、リードするHさんもしなやかで、まるで妖精のようだった。うっとりと眺めるには短すぎるプログラムだった。
彼の生活にはリズムがあったように思う。決まった時間に起きて、丁寧に顔を洗い、身支度をし出掛けていく。
彼も就職活動をしていなかった。
ダンスは、大学からはじめたと聞く。中高は、テニスでインターハイレベルの腕前だったそう。
背が高く痩せていて、顔が小さい。跳ねるように歩いた。
すれ違うと照れたように笑い、誰かと話すのを見かけても、いつも首を曲げながら相手の顔をのぞくようにして、少し笑みを浮かべ、穏やかだった。
Hさんとは、あまり寮の中では接点がなかったけれど、数年後、渋谷駅のホームでバッタリ会った。夜だった。
明るいホームなので、顔がはっきり見えたから「Hさん」と私から声をかけると、すぐに気づいてくれた。
私もHさんも、人と一緒だったので、頭を下げただけだったけど、Hさんが「〇〇バレエ団にいます」と言ってくれたのを、今でもはっきり覚えている。
すてきな笑顔だったし、またいつか、彼のダンスを見ることができるチケットのように思えたからだ。
もし、「ちいさな曲芸師 バーナビー」(再話・絵 バーバラ・クーニー 訳 末森千枝子 現代企画室刊)が舞台化されたら、バーナビー役には、Hさんがぴったりだろう。
ひとりぼっちで生きる少年バーナビーは、誰も外で曲芸を見たくなる冬の間、とうとうお金が尽きて、食べるものにも困るようになる。修道士に助けられ、修道院で寝泊まりするようになったバーナビーは、神様のためにできる自分の仕事は何かと考える。
自分にできる唯一のこと、それは、踊って跳ねて、宙返りをして、手品をして、曲芸をすることと思いつき、チャペルに通って毎日、マリアさまとイエスさまの前で、ひたむきにやり続ける。クリスマスを迎え、皆が神さまに贈り物をした後、その日も気絶するほど、バーナビーは曲芸を続けたが、とうとう修道士に見つかってしまう。
もうHさんは少年と言える年齢ではないし、背も高すぎるだろう。でも、あの渋谷のホームでのたった一言で、私には、Hさんのやってきたことが充分に伝わった。