『一生ものアラン』訂正箇所
編み物クラブからのお知らせ
呉の街
昨日、自分の誕生日を前に、お墓参りに行ってきました。
私の両親は、それぞれ広島県呉市の出身で、父方は川原石に、母方は吉浦にお墓があり、私は幼少から両方の墓参りをするのが、盆や彼岸の慣わしでした。
私自身は、広島市内で育ちましたが、通った呉の街には、やはり馴染みがあり、この景色を見ると懐かしさすら覚えます。
林芙美子の放浪記のように「これが呉の街だ」と心の声が叫ぶのです。
向こうに見えるのは、造船跡地の煉瓦建物です。
重々しく圧倒的で要塞のようでもあり、近くで見るとちょっとした恐怖さえ感じます。
それはこの街が、戦争によって栄え、加担した街だからです。
貧しいものは食い繋ぎ、富める人は財を成しました。
戦争による産業の発展で、人々が往来し、街を形成しました。
広島が原爆によって破壊されたと被害者になるより先に、広島の軍港からも、呉の造船や軍港からも、たくさんの人が戦争に送られたことを、刻んでおかなくてはなりません。
戦後が戦後であり続けるために。
ナチスは世界に自国の過ちを認めました。
日本は認めないまま、被害ばかりを訴えます。
これでは、何も学んでいないように思えるのです。
伝えること
今日は午後から編み物クラブです。
今朝歩きながら考えたことを書きます。
編み物クラブで私は、針を持つのも初めての方がいらっしゃると「編む」行為と構造をお伝えして、その後、手が動くかどうかは、その方を信じるしかありません。
「できない」を何度も繰り返しながら、それでも「できる」ようになるまでを、待ちます。
手の行為ほど、人が年を取ったとて、身につけるスピードが早いものはないと、自分自身の経験と感覚、そして伝える立場として見てきて、待てるようになりました。
それぞれの方が、今まで器用に手を使ってきた「それまで」から、新しい動きを習得することのなんと確実なことを。
動かした分だけしか上手にならないけど、動かせば確実に上手になる手を私たちは誰しも持っています。
自転車乗りの感覚と似ていて、私たちは、どこかで常に体のバランスを取ることに長けていて、例えば自転車にはじめて乗る時、バランスが取れなくて最初はあたふたするけど、一度乗れるようになると、体が覚えます。
長く乗らない時期があったとしても、少し乗れば「ああ、この感覚」でまた乗れるようになりますよね。
でも「昔取った杵柄」は、長距離自転車では通用しないのと同じで、編み物も「針は動かせるけれど」編み物筋肉は衰えているので、それを取り戻すためには、それなりの努力が必要になります。
私は、かつてブラスバンド部でクラリネットを吹いていましたが、数年ぶりに演奏するつもりが、すっかりクラリネット筋肉(主に頬と唇)が落ちていて1曲も吹き続けられず、人前で大恥をかいたことがあります。
先日伺った彦根でのWSで、たぶん80才近い女性の方が参加くださいました。白髪の上品な。
「若い頃、20年、30年ぶりで、長くやってないけど、昔取った杵柄でなんとかなると思うの」と仰る。
私は、正直、心の中では「それはどうかな」と思っていました。その間その日まで、一度も触ってはおられない様子。
WSがはじまると、彼女は手は動くものの、編めるけどぎこちなく、糸を割っておられたり、すっすと手が動かないことを気付かれました。
すっかりほどいてまた指でかける作り目からやり直します。
親指の増し目になると、理解するまでに時間がかかっておられるようでした。
彼女には、隣の周りの若い方が助け舟を出してくれていました。
私はみなさんの周りを回りながら、様子を伺います。
彼女がふと「甘く見過ぎていたわ」と小さく溢されました。
私は黙っていたけれど「気付いてくださった」と思いました。
そこから彼女が変わるんです。
時間はかかるけれども、粘り強く取り組むことによって、何度もほどきながら作り直し、挽回します。
多少の遅れはあっても、理解し、手の感覚を取り戻すと、ひたむきに編み続けられました。
彼女は、親指の増し目も理解して編み続けられました。
「わかった」という感覚になられた頃、私は彼女に話しかけました。
長く看護師を育てる教員として働いたこと。やっと自分の時間ができて、この場所の手仕事のWSに機会があるごとに参加しはじめたこと。
元々、物静かで謙虚な方なんだと思います。
終わるころには、周りの「いつもやってます」チームの若い方々にかなり近いところまで追いついておられました。
WSも終わりになって、私は彼女とその近くにおられる方と、LINE交換をおねがいしました。「助け舟」の女性が応えてくれます。
指まで編めてる方とその後もやりとりできれば、彼女は仕上げることができると思ったからです。
人はいつでも変われる瞬間を見せていただきました。
人は結局「姿勢」なんだと思います。
私はそれをみなさんから教わっています。
ひな祭り
母が作った雛人形を出してみた。
これはきめ込み人形といって、土でできた土台の上にのりて生地を貼って、自分で人形を仕上げる、というキットセットだったように記憶している。
高価な雛人形は買えないし、小さな場所でも飾れるという、母の工夫と工面だったのだろう。それでも将来、私に持たせて、という気持ちがあったのだろう。
先日伺ったお家で、可愛らしい雛人形を見せていただいて、
何年も仕舞いっぱなしだったけど、今日の今日、出す気になった。夜には仕舞うのだが、今日の自分ならそれができる。
いつも慌ただしくすぎてしまうし、ご馳走も何もないけども。
先日出先にいただいた日本酒を夜には飲んで、お祝いします。
本来の主旨とは変わっているけども、これまで元気で生きてこられた感謝の祝いとして。