母が亡くなった年から玄関に掛けていた母子草の花を、今朝ふと「もうなくても大丈夫よね」と心で呟きながら、燃えるゴミに包んだ。
母子草の花のドライはかわいらしく、友達の何人かは、自分もしたいと言って、うちの庭から長いままあげた。
友達の玄関でも、うちの母子草はフワフワと儚げに揺れていた。
そのくせ何年も乾いた花びらは落ちることなく、綿毛のような黄色の花弁もそのままに玄関にいてくれたのだ。
「春になったらまた会えるしね」
母子草の季節になれば、うちの小さな庭のまた、あちらこちらに咲くだろう。
mina perhonen 皆川さんが描く花のモチーフにも、きっとこれが含まれているんじゃないかと、いつも勝手に思っている。
母子草に対して「父子草」の方は、勢力が強く形も悪役よろしく憎たらしい容貌をしている。
今朝も草むしりをしたが、私はあまり真面目にこれをしない。
雑草が生えて青々としてる方が目に優しいし、うちは大雨が降ると道路の水が一旦うちの庭に溜まるような立地なので、草を地面の堤防にしておかないと、土が流れて行きそうで怖いのだ。
そして私は、朝晩歩く川沿いのしげしげの、雑草の移りゆく様を見るのが大好きだ。
数日前まで勢いよく茂っていた草が茶色になり首をもたげると、その足元に待ってましたとばかりに、次の季節の雑草が。
初秋なら地面に張り付く草が。
初夏なら空に向かってまっすぐ伸びる草が。
中間で「ウマノツメクサ」のような小花の咲きこぼれる序奏のような黄色を眺め、
蒼い「オオイヌノフグリ」は、いち早く春の訪れを教えてくれる。そして露草、ナズナと続く。
こんなことが楽しくて生きていられるのだから、私は相当簡単にできている。
さて、庭の雑草にクマデを入れると、空に伸びた丈の長いのは、スルスルと引っ掛かり、その場を開け渡す。
政界も社会もこんなふうに潔く、世代交代すべきだよ、と考える。
そいつをクマデからはがして、母子草とまとめて新聞紙に包み、今朝の燃えるゴミに出した。
我が家の姫林檎も紅く色付きはじめ、私は、今か今かと収穫のタイミングを測っている。
よく姫林檎を人にあげると「食べられるのですか?」と驚かれるけど、私にとって姫林檎は夏の終わりから秋口にかけて、貴重な食料として当てにしている。
1日1個ずつ、枝からもいで食す。無農薬のビタミン剤。
今年は、姫林檎の実の付き様が少ない。
桜の花が終わる頃、いつもなら林檎の花は満開になるのに、今年は少なかった。
(撮っていた、今年春の姫林檎の花)
人間にバイブレーションがあって、調子の良い時悪い時とあるように、林檎にだって、たくさん花をつけ実のる年もあれば、付かない年もある。
それを「当たり年だ」「不作だ」と文句を言うのは人間の方で、自然の摂理からすれば、ほんのワガママに過ぎない。人間のワガママなんて取るに足らないちっぽけなもの。
わかったようなことを言ってなるべく小さく生きたいと思ってはいても、日が登るとエアコンを付けてしまう。
「朝晩涼しくなりましたね」は、挨拶に過ぎず、一年中エアコンなしで生きてた自分にまた戻れるのだろうか。
仕事の効率を言い訳に、快適さに浸るのも、私のワガママに過ぎない。「お客さんが待っている」などと言いながら。
今朝はもうすっかり秋だ、半袖はもう飽きたんだと、長袖Tシャツにしてみたものの、もうすでに着替えたくなっている。