HOLY'S BLOG

広島で暮らすこと、随想

取り立てて「この街が好きだ」と言うわけでもない。 先祖代々、小市民として生きる私の家系は、持ち家もなく、転々と暮らして来た。守る家も土地もなく、生まれついての名無し草ゆえ、何年か同じ土地に暮らすと、執着なくどこかへ行きたくなる性分はこれから先も変わらないだろう。大きな所有は、いまだに想像できない。 そんな自分でも、生まれついた土地のことを考えると、広島で生まれ育った恩恵について、考えざるを得ない。

 

私がこの仕事についているのは、母の仕事の影響が大きい。子の私が言うのも憚れるが、私の母は、腕の良い縫製師だった。

原爆投下後、復興した広島には、それでもまだまだ戦争未亡人と言われる裕福なご婦人がたくさん居られたと思われる。 母は、オーダーサロンの仕立て師として、生計を立てた。子育て中に一度その職を離れたが、離婚後の再就職先も、名のある縫製工場だった。

 

広島の戦争被災建物として、旧広島陸軍被服支廠があげられるが、軍港として栄えた広島の街の洋服文化と技術の高さは、その影響があったと思われる。

母の生まれた軍港の街、呉には、今でもあちこちに、紳士服テーラーの看板が見受けられる。

 

 

東京での打ち合わせで、編集者さんに私がお土産を持参すると、よく「広島には洒落たものがある」と褒めていただく。 その理由だって、やはり広島が軍都だったからと言えるであろう。 軍都として栄えるまでも、原爆で焼土の街になった後も、広島には、たくさんの国の予算がつぎ込まれている。たくさんの人の行き来と商売が、あったからだ。

その恩恵無くして、今の私たちの暮らしはないのだ。

 

父親を幼くして亡くした母は、二十歳の頃、時世の若者同様に「安保反対」を唱えたそうだ。当時、すでに家計を助けるために進学を諦め海軍に就職していた7つ上の長兄に、当時の日本が、そして呉という街が、いかにアメリカの傘の下で生かされているかを解かれ、怒られたという。

深入りしなかったのも、すでに縫製師として生活する母にとって、親の仕送りの元で生かされる大学生達の取る社会活動は、茶番にしか見えなかったそうだ。

 

 

こんなことを考えたのも、昨夜、「オーディブル」アプリで、梨木香歩さんのエッセイ「歌わないキビタキ」を聴いたからだ。

梨木香歩さんといえば、私たちの年代にとっては雑誌「クウネル」に短編小説がよく掲載され、「西の魔女が死んだ」をはじめとする元祖「オシャレな森の中の生活」を絵に描いたような作家さんであった。

私より少し年代が上で、憧れを体現したような知的で、品のある文章。

その梨木さんの近々のエッセイの朗読を聴いていると「病気の罹患」や年を重ねた「おひとり様」「認知症」など内容の年代がグッと上がっていることに驚いた。 自分だって50代となり、当然といえば当然なのだ。

 

その中で、梨木さんが今、アジアで起こっている戦争について、そして日本の「第二次世界大戦」についても語られており、久々に触れた彼女のエッセイに、より日本に生きる「切実さ」や「責任」を感じたのである。自然と年を重ねることにより、触れずにはいられない抱える「本当のこと」が語られることに驚きながら心強さを感じた。年を重ねた者として、語るべき内容であり、きれいごとばかりではいられない誠実さを感じた。

自分もこの間、若い頃なら耐えられなかったであろうことを、いくつか超えてきた。

 

私が今まで訪れた美術展で、不意に涙がぽろぽろと流れた絵がある。 香月泰男さんのシベリア抑留シリーズの展覧会で、黒い黒い闇に浮かぶいくつかの星の絵だった。

香月泰男さんは、このシリーズを描くために、戦争中に日本軍としてシベリアに抑留された自分が体験された厳しい寒さと漆黒の闇を表す「黒」を、様々な材料で幾度となく試されたという。 自分がその中に居た闇を。  確か、木炭をすり潰し画材に混ぜ、重ね塗りし、ご自身の「黒」を作られたとか。

その深い深い暗闇に浮かぶ星の美しさに、当時20代の私が、何を感じたのかわからない。生まれて初めて絵を見て涙を流す体験をした。

 

若松英輔さんの著者に触れ「悲しみは悲しみによってのみ慰められる」という言葉に出会った。悲しみは励ましに、ではない。 悲しいは、「いとしい」とも読む。   私から流れ落ちた涙も、たぶんその類ではなかったのか。

私も広島で生まれた以上、広島の街が「争い」の中から栄えた街であることを自覚して生きていたいと思う。それがどういうことなのか。 今、起こっている戦争を「他人事」にしてはいけない。