25周年かもしれない
昨夜、風呂の中でふと、私が仕事をはじめて、ちょうど25周年になるのかもしれないと思ったのだ。
そのことをXに呟いてみると、私の投稿にしては思いがけず「いいね」をいくつもいただいた。
古い友人がコメントをくれ、千葉美穂においては引用リポストまでしてくれた。
めでたいことなのか。
物作りをしてる人には共通して、周年を考える間もなく、やっておられるような気がする。
お客さま商売なら別だ。たぶんお客さまへの感謝として、何かしらお返しをしておられると思う。
私の場合、看板を出した訳でもなく、まさかこの仕事で食べるとも思っていなかった。
はじめて私の編んだ手袋を人に買ってもらったのが1998年の暮れで、1999年明けから、その人の店に私の手袋が並んだ。
その人から、納品・請求書の書き方を教わり、プリントごっこと消しゴムハンコでタグを作った。
その人には今でも頭が上がらない。
今でも仲良くしてもらっている長野市のノーノ分室の光ちゃんだ。
この辺りのことを思い出すと、鼻の奥がジンとする。
今思うと、物作りで生きるデビューとしては、割と早かったのかもしれない。
それは図らずも仕方なし、弾き出されるスタートだったが、他を見る余裕もなかったことが、今となってはありがたかったのかもしれない。
先日の穂高 でのWSに参加くださった60代の女性に「編み物が仕事になったきっかけは何ですか?」と聞かれた。
その質問には、もう何十回と答えている。
説明するのも慣れた自分をいやらしく感じながら、短縮版で「東京で勤めていたが体を壊して実家に帰り、自宅療養がてら編んだ手袋を友達にプレゼントしたのが、セレクトショップのオーナーの目に止まり・・・」と、彼女の指人形を手直ししながら、口先だけで喋った。私だって本当はこの話を、いつでも新鮮な気持ちで話したいと思っている。
直し終え目線を上げ「はい」と手渡そうとすると、彼女はポロポロ泣いておられた。
慌てた。
何かが彼女の琴線に触れたのだ。
そうか。彼女が感じ取ってくださった何かに、私は深く感謝した。
彼女は溢れる涙を堪えるかのように口を真一文字にし「ウンウン」とうなづいた。
人生なんていうと大袈裟だが、人それぞれ様々なことを乗り換え、今を生きる。
彼女にも、病気の頃があったのかもしれない。長野では有名なフランス菓子店の店主さんだと聞いた。
私は、体を壊したことで、この仕事をすることになった。
周年なんてカウントする間もないまま、よくここまで来たものだと呆れながら、私は今日も作っている。
・・・この話の続きを書きました。
穂高から見える山々が田んぼに映る。