HOLY'S BLOG

手袋の話

私が小学4年の時、母がお腹の手術で、2週間入院することになりました。

母の入院中、近所に住む伯母が週に何度か様子を見に来てくれ、日曜には、父が焼きそばを作ってくれました。

父親の料理を食べたのは、その時がただ一回きりとなりました。

 

母は入院する前日、私と兄達に、紙の上に手を乗せて、鉛筆で輪郭をなぞりました。

3枚の手の輪郭を書いた紙と毛糸を持って、母は、入院生活に向かいました。

兄達の手の輪郭はやたら大きく、私のはちんまりとしていました。

休日に、父と母のお見舞いにいくと、1番目の兄の手袋ができており、母は2番目の兄の手袋を病室のベットの上で、せっせと編んでいました。

2人の兄には、手首のゴム編みに緑の線の入った黒い手袋で、1号の短かいスチールの針で、並太毛糸をきゅっきゅっと編んであり、それは目の詰まった丈夫そうな手袋でした。

2週間がやっと経って、待ちに待った母がうちに帰ってきました。

 

母が私にと編んでくれた手袋は、兄の手袋の残りと赤い毛糸を縞々に編んだ手袋でした。

面積の大きな兄達の手袋を編んで、私の分は、母の苦肉の策だったのでしょう。

赤と黒の縞々なんて、アニメに出てくる悪役みたいで、当時の私はちっともうれしくありませんでした。

それでも冬の寒い朝には、その縞々の手袋を付けて、登校しました。

雪が降って、雪だるまをその手袋で作っても、ちっとも染みないあたたかな手袋でした。

 

そのうち私の手も大きくなって、縞々の手袋は、キチキチに小さくなりました。

次の手袋は、確か「いとや」という衣料品店で買ったスヌーピー柄の入った緑の手袋でした。

その次の手袋は、私が母に作り方を教わって編んだグレーのボンボンを付けたミトンだったと思います。

 

今、私は、手袋とそして帽子の本を作っています。

正しくは手袋の本に載せるべき手袋と、帽子を編んでいます。

新しいデザインのものを作る時、毛糸は一本の糸ですから、みなさんに編んでもらいやすい編み図になるまで、何度も何度も解いては編み直します。

みなさんに、ご自身の、そしてご家族の手袋や帽子を編んでいただけるよう、生活に根差した、ご自身の生活を温めるような手袋を作っていただけるように。

生きる技術として、手袋の作り方を理解し、実践していただけたらとてもうれしいです。

 

25周年かもしれない

昨夜、風呂の中でふと、私が仕事をはじめて、ちょうど25周年になるのかもしれないと思ったのだ。

そのことをXに呟いてみると、私の投稿にしては思いがけず「いいね」をいくつもいただいた。

古い友人がコメントをくれ、千葉美穂においては引用リポストまでしてくれた。

めでたいことなのか。

物作りをしてる人には共通して、周年を考える間もなく、やっておられるような気がする。

お客さま商売なら別だ。たぶんお客さまへの感謝として、何かしらお返しをしておられると思う。

 

私の場合、看板を出した訳でもなく、まさかこの仕事で食べるとも思っていなかった。

はじめて私の編んだ手袋を人に買ってもらったのが1998年の暮れで、1999年明けから、その人の店に私の手袋が並んだ。

その人から、納品・請求書の書き方を教わり、プリントごっこと消しゴムハンコでタグを作った。

その人には今でも頭が上がらない。

今でも仲良くしてもらっている長野市のノーノ分室の光ちゃんだ。

この辺りのことを思い出すと、鼻の奥がジンとする。

今思うと、物作りで生きるデビューとしては、割と早かったのかもしれない。

それは図らずも仕方なし、弾き出されるスタートだったが、他を見る余裕もなかったことが、今となってはありがたかったのかもしれない。

 

 

先日の穂高 でのWSに参加くださった60代の女性に「編み物が仕事になったきっかけは何ですか?」と聞かれた。

その質問には、もう何十回と答えている。

説明するのも慣れた自分をいやらしく感じながら、短縮版で「東京で勤めていたが体を壊して実家に帰り、自宅療養がてら編んだ手袋を友達にプレゼントしたのが、セレクトショップのオーナーの目に止まり・・・」と、彼女の指人形を手直ししながら、口先だけで喋った。私だって本当はこの話を、いつでも新鮮な気持ちで話したいと思っている。

直し終え目線を上げ「はい」と手渡そうとすると、彼女はポロポロ泣いておられた。

 

慌てた。

何かが彼女の琴線に触れたのだ。

そうか。彼女が感じ取ってくださった何かに、私は深く感謝した。

彼女は溢れる涙を堪えるかのように口を真一文字にし「ウンウン」とうなづいた。

 

 

人生なんていうと大袈裟だが、人それぞれ様々なことを乗り換え、今を生きる。

彼女にも、病気の頃があったのかもしれない。長野では有名なフランス菓子店の店主さんだと聞いた。

私は、体を壊したことで、この仕事をすることになった。

周年なんてカウントする間もないまま、よくここまで来たものだと呆れながら、私は今日も作っている。

 

・・・この話の続きを書きました。

穂高から見える山々が田んぼに映る。

プラグの整理

仕事のしすぎか年齢的なものか、

夜になると首と肩に痛みが走るようになった。病院に行くことも考えたが、まず自分でできることを考える。

スマホは見過ぎていないか?

姿勢が悪くなってはないか?

ふとスマホの置き場所について考え、スタンドの購入も考えたが、

見る回数を減らす、で良いと思った。

じゃあどこでスマホを見るか。

机の上だと充電の兼ね合いでいつも自分の右横に置いていた。

左首肩が痛くなるのは、そのせいかもと思い、正面を置く位置に考えると、充電器の線の配置も変わる。

すると使っていないプラグの存在に気付き、コンセントの配線の整理ができた。

延長コードも減らせるではないか。

足元にあった延長コードも要らなくなって、机周りがスッキリした。

プラグの配線は、まるで人間関係のようだ。

放っておくと、やたら増えてくのは、電気の配線も人間関係も同じ気がする。

使ってない配線は、整理する。

自分に無理をしないこと。

首肩の痛みも少し和らいだ気がする。

花に触る

フローリストの平井かずみさんのWSに
運良く参加できたことがあり、その日から、花に触るのが前よりも好きになった

「花の気持ちになって
そうしたら
どうしたら花が心地良くなれるか、わかるのよ」

水切りの器には、たっぷりと大きめのものを使うこと

茎の太いものは、たくさん水が吸いあげられるように斜めに茎を切り、さらに切れ込みを入れること

花が土に植っていた時のように
太陽に向けて生けること

花器に茎を添わして花を入れること

指先を使って
風通しの良いように葉っぱを間引くこと

日々の水切りも、花をよく観察するようになって
花が長持ちするようになった

この紫陽花も茎の長い、すっときれいな様子でいただいて
何度かの水切りの後、花先がクタッとしてきたので、芽の付いてる枝の分かれ目だった箇所まで、思いっきり10cmずつ切ったら、すっかり元気になった

ささやかで
確実に
自分がしあわせになること

伊藤先生の働くVネックベスト

伊藤先生の、働くVネックベストできました。

伊藤先生は、我が家のかかりつけのお医者さまです。
働くセーター」(文化出版局)に、モデルとしても登場いただいてます。

伊藤先生は、ご自身のことを「町医者」と言われます。

先生の1日は、診療、往診、診療、往診を繰り返されるので、白衣とジャケットをと着替えやすいベストになりました。
先生の肌色と、お持ちのワードローブに合う毛糸を選ばれました。
ライトグレーと生成りの杢糸です。
@jamiesonsofshetland col.113(Sholmit/White)

本とは別売りの編み方リーフレット「働くクルーネックベスト」の応用編になります。

「秋口から春先まで、長く着れるね」

伊藤先生、
季節も良くなってきたし、また私たちの編み物ピクニックにいらしてくださいね🌳
息抜きの珈琲、ご一緒しましょう☕️

 

*「働くセーター」出版時の伊藤先生のインタビューも、良かったら合わせてご覧下さい。→

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