ご実家からのお便り
お盆前の友人の打ち上げ会にて、久々の方と再会した。
私の初個展「手袋展」にて、手袋をオーダーくださった方。
その方から、お盆中に、帰省されたご実家からのメッセージを頂いた。
「小さなの彼女と話したくて、購入した指人形、健在。彼女も7才になりました」
ご家族に生まれた赤ちゃんだった頃のこの「彼女」に送られて、大事に一緒に育ってくれたのですね。
何より嬉しいお便りだった。
もう、この夏は、大満足だ。
この圧倒的な緑の景色の田舎に、団地育ちの自分は、羨ましい限り。
後記 シェットランドヤーンは、毛糸に付く虫にとってはおいしいようで、この指人形にも、被害が!
お直ししますよ。もちろんです。
アランフットウォーマーお届け、お昼を頂く
アランフットウォーマー。
短めゆったりめと、長いちょいゆったりめ。
短めゆったりは、冷えとりの靴下重ね履きをされる方へ、しっかりゆったりめです。
長めちょいゆったりの方のは、職場用。
職場の足元が、冷えるとのこと。エアコンばかり効いて、人の出入りで足元には冷たい空気が溜まってる職場だそうです。
細めのパンツには、ブーツ風にパンツの上に重ねて履いて頂けるよう。ふくろはぎと足首のところと、太さを変えて編んでます。
「靴を履き替えなくても、外へ出られるのがいい」と、オーダー頂きました。
モコモコソックスだと、温かくても靴が履けないから、外へ出掛ける度に脱いだり履いたりしなくちゃです。
このフットウォーマーなら、そのまま履ける靴が、実は結構あります。
フットウォーマーは、どんな合わせ方ををされるのか、ご希望に合わせて太さを調節して編みます。
短めを昨日お渡ししました。
リネンのホワイトパンツを履いておられました。
今日履いてみて頂いた時は、「顔から汗が吹き出る~」と言われてました。
そりゃそうですよね。(笑)
バウルーで焼いたホットサンドを頂いて帰りました。パンはお手製ベーグルです。贅沢♪
そして食べて5分後に、ぐっとお腹が膨れました。
「お代わりください~」なんてうっかり言わなくてよかった。
かぼちゃとツナ、このツナ缶が、某食材店にしか売ってないツナ缶で、あっさりとしてて、かぼちゃと合っておいしかったです。あれは、あのツナだからだな。
缶が、グレーの。
お土産まで頂いて、まるで里帰りの娘のように。
ちなみに、彼女には「尚男」と呼ばれてます。
光る野菜
今年も、里帰りの友人にお土産を頂いた。
旦那様のおじさん、おばさんの作られた野菜、彼女の実家で取れたもの。
この他に、素麺かぼちゃと冬瓜のカットが冷蔵庫で眠ってる。
素麺かぼちゃは、酢のものにしようか、出汁で煮付けようか。
冬瓜は、肉っぽいものと合わせるとおいしいけど、昆布とだけでじっくり煮たら、どんな仕上がりになるだろう。
一番の楽しみは、坊ちゃんかぼちゃだ。
1ヶ月位(だったっけ?)寝かしてからとのこと。この茎の付け根がすっかりカラカラになったら食べ頃ってことかな。
苦瓜は、玉葱とだけで炒めて、最後に卵で絡めてみたい。
キュウリは、最近はまっている冷汁に持ってこいだ。
お墓参りも早々に済ませ、昨日はお盆がお誕生日の幼馴染みと久々、電話で話した。
私のお盆を締めくくる有難い野菜沢山。
後は編むばかり。夏を乗り切る。
今日は、終戦記念日。
お墓参り
11日に早々と、父方と母方と、父のお墓参りをしてきました。
車はないので、母と電車を乗り継いでのツアーです。
店も開いてない朝から、花を持って歩くので、250円なる豆灯篭を寺町で見つけ、買っておきました。浄土真宗安芸門戸ですので。
ローカル線を乗り継ぐので、お墓までの往復の時間と次の発車時間を逆算しながらの、なかなかスリル満点で、楽しいものです。
汗もたっぷりかいて、墓所の脇にある井戸水の美味しいこと。昔ながらのポンプ式井戸から、顔もじゃぶじゃぶ洗って、水筒に水も入れて、残りの道中に頂きました。
私の父方は、祖父が、私が小さな頃に亡くなり、祖母は継祖母ですのであまり行き来がありませんでした。
唯一の伯父が亡くなり、父も逝ってしまうと、父方のことはよく知らないままになってしまいました。
従兄弟のお兄さんから、兄が聞いたところによると、父には伯父であるすぐ上の兄の上に、長兄と姉がいたとのこと。
長兄と姉は、戦時中、学徒動員で、地元の呉から広島市内に出ており、8月6日に被爆、その兄と姉を探して実母だった祖母が、次の日に市内へ入ったとのこと。
長兄は8月12日16才、実母は昭和24年に6月17日に亡くなっていることを墓石で確かめました。姉は見つからなかったのでしょう。
父が亡くなってから、私は、兄と母と3人で、平和公園内にある原爆死没者追悼平和祈念館で、長兄である伯父の名前を探したことがあります。
それは兄や私にとって、縁の薄かった父との繋がりを探すことでもあったように思います。
学校ごとの名簿の、「は行」ばかりをひとつずつ見ていきました。あちらの棚、こちらの棚と、どれほど時間がかかったか。
伯父の名前はありました。
私は被爆3世というのか、2世なのか。
そして今更、そのことに気付いた自分が恥ずかしい。
父は、生涯、家族と深く関われなかった人だった。
今年、初めて8月6日の灯篭流しを見に行った。広島に生まれ育ちながらにして。
戦後70年ということもあり、世界中から人々が集まっていて、平和公園の周りは初めて見る、それは人だらけの光景だった。
そんな中、ふと一人の小柄な男性と、公園内の木立の中てすれ違った。まるで人目を避けるように。
そのマスクから見える表情の端には、肌の引きつれと、瞼の歪み、鼻の埋没が見て取れた。
ごめんなさい。見てしまいました。
あなたがこの70年、どんな風に生きてこられたか、考えただけで涙が出ます。
彼を前に、「戦争は終わった」なんて、私は言えない。
『わたしの、終わらない旅』
横川シネマシネマにて『戦場ぬ止み』
と合わせて『わたしの、終わらない旅』も観ました。
http://www.cine.co.jp/owaranai_tabi/
冒頭から、私は衝撃を受けた。
監督の姉が住む「ガンジー島」。
そのガンジー島の対岸にあるフランスの核再処理施設から排出される水や空気が、海に空に、流されているという。海流によってまずは対岸のガンジー島、ジャージー島に流れ、その後、デンマークの海を巡り、大海に流れていくという。
ガンジー島といえば、「ガンジーセーター」と名前に付くほど、海の男達には欠かせなかったセーターとその発祥の島だ。
ガンジー島の主な産業は、酪農や農業という。
私がびっくりしたように、今や必ず誰かの好きな場所、好きな物が出来た場所が、私と同じように何かしら原発の被害を受ける場所に、すでになっていることを想像できてしまった。
今更そんなこと、幼稚なこととわかっている。でも多くの人の感覚なんて、そんなものなんじゃないかな。
世界の核処理施設の地図まで見てしまった。http://arch.inc-pc.jp/004/index_22.html
そして、そのフランスの核処理施設では、日本やアメリカからも運び入れられ、処理されているという。
その処理の仕方、ほんの20年前までだったか、人間の手によってなのだった。防護服に包まれているとはいえ。
監督の旅の始まりは、長野は須坂の小さな雑貨店を営んでいた母親の、小さなガリ版刷りから始まっている。原発の影響をこれ以上黙って見てはいられないという、子供達の将来を心配する母親の声として。
アメリカのビキニ環礁での大規模な核実験に寄って、故郷も生きる術も歴史も奪われたマーシャル諸島の人々。
カザフスタンでは、旧ソ連による核実験で、汚染された大地で生きる人々をみつめる。
広島、長崎、そして第五福竜丸と日本は被曝を体験している。
それでも私達は、原発に「核の平和利用」を夢みるのか。
この映画を観ずして、原発問題は語れない。
安部氏の発言が、机上の空論でしかないことを、私にだってハッキリということができる。
この映画が上映される日本に、私は希望を感じている。
横川シネマにも乾杯だ!