ジェッタコースターのような1日
遅々として、物事が進まず停滞したような時期もあれば、一気に先の予定が次々と決まる日もある。今日は、そんな日。
あらゆる連絡事項が飛び交った。
さらに、働くセーターの重版が決まったと出版社より連絡あり、
また知り合いのお店がすでに閉店されたことを知る。
今更、私に何かできることはなかったと仕方ないことを考えてしまう。
また慌ただしく続く連絡事項。
外を歩くと、この空だったので、すべてよしとして、今を感謝したい気持ち。

さて編み物に着手しても、上の空で段数を間違えた。
明日の朝、すっかり編み変えよう。
もっと自分の仕事を大切に、一瞬一瞬を大切にいきたい。
編み物クラブにて

2目ゴム編み止めが上手くできなかったMさんが、5月のGW中に自身で「2目ゴム編み止め習得キット」をいくつも作って身につけられてから、
それを見習ってやってみて、物になさってる人の声をチラホラと聞く。
神奈川から旦那さまの転勤で、こちらに越してから通って下さってるR さんもその1人。
基本的な編み物のことは、おおよそおできになられるのだが、「巻き目から目を拾う」や、2目ゴム編み止めがあやふやだったそう。
先日の編み物クラブです、働くセーターの傍からの巻き目からの拾い目をこれで良いか、確かめられる。
手元のポーチから、そっと「これやってみて、できるところはやってきました」と自身の「2目ゴム編み止めキット」のいくつもを見せてくれた。
行動で示す人の声は小さい。
わかったという自信が、声を大きくする必要がないのだろう。
私は、そういう人の声を書き続けたい。
二目ゴム編み止め練習キットをたくさん作ってくださった見本となる写真がこちらです。

25周年かもしれない その2
前回、穂高でのWSで、私の仕事への経緯に涙した女性の話を書いた。→*
この話には続きがあって、私は穂高でのWSの後、長野まで足を伸ばし、前回にも書いたノーノ分室と、同じ時期からHOLY’Sを支えHPを立ち上げてくれたクラバラシマユミ
ちゃんに会いに行ったのだ。
どちらでも、穂高で、私の仕事の経緯に涙した女性の話をした。
慣れた調子で話をしたら、何か琴線に触れたらしくポロポロ涙を流されたという話だ。
私が仕事をはじめた当初から知ってる彼女たちには、話すべきニュースなのだ。
ノーノ分室の光ちゃんと恵子ちゃん、そしてマユミちゃんにしても一様に同じような反応を示す。彼女たちにとっては、その私のエピソードの登場人物、また関係者なので耳慣れているのである。
ニヤニヤと話を聞き、最後では「ハハー」と笑いつつ「なんか触れちゃったんだねぇ」と、私が慌てる様子が見えでもしてるかのようだった。
25年、それは結構長い年月。
音信不通にもならず、ずっと続く関係というのは、稀なのかもしれない。
仕事関係者でもあるからという理由も大きいけれど、それだけじゃないと思う。
だからこそ・・・。
それに続く言葉が今は見つからないけれど、とにかくありがたい存在なのだ。
ノーノ分室に立ち寄りたかったのは、私はお洋服を何かしら買いたかった。彼女たちと顔を見ておしゃべりをし、ふざけ合い、ご飯を食べたことは、広島に帰ってから、私の日々を元気にしてくれる。
マユミちゃんと会って、家族のことや共通の友人、日々の小さな報告をすると、マユミちゃんに初めて会った頃の学生時代の自分に戻る気がする。
「この道で、アタシ、まちがってない?」
と確認したくて、私は長野に立ち寄ったのだろう。実際、口にする訳ではない。
光ちゃん、恵子ちゃんとご飯屋さんに行く道すがら、東京出張から帰って来たchannel.books さんの圭さんと浩美さんに偶然会えたのも、長野でもらったプレゼントかと思えるほど、うれしかった。
特別じゃなくて、また来週も会えるね〜みたいに、私達は手を振った。

TREK VOGEL の美音さんが、別れ際に持たせてくれた穂高神社の柏餅。
穂高神社は、とても神々しい場所だった。またあの緑の中に立ちたい。
長野での次の朝、光ちゃんが竹せいろで蒸し直し、木のすてきな器によそってくれた。
こういう小さなひとつひとつが、私には新鮮で美しく、ありがたい。
手袋の話
私が小学4年の時、母がお腹の手術で、2週間入院することになりました。
母の入院中、近所に住む伯母が週に何度か様子を見に来てくれ、日曜には、父が焼きそばを作ってくれました。
父親の料理を食べたのは、その時がただ一回きりとなりました。
母は入院する前日、私と兄達に、紙の上に手を乗せて、鉛筆で輪郭をなぞりました。
3枚の手の輪郭を書いた紙と毛糸を持って、母は、入院生活に向かいました。
兄達の手の輪郭はやたら大きく、私のはちんまりとしていました。
休日に、父と母のお見舞いにいくと、1番目の兄の手袋ができており、母は2番目の兄の手袋を病室のベットの上で、せっせと編んでいました。
2人の兄には、手首のゴム編みに緑の線の入った黒い手袋で、1号の短かいスチールの針で、並太毛糸をきゅっきゅっと編んであり、それは目の詰まった丈夫そうな手袋でした。
2週間がやっと経って、待ちに待った母がうちに帰ってきました。
母が私にと編んでくれた手袋は、兄の手袋の残りと赤い毛糸を縞々に編んだ手袋でした。
面積の大きな兄達の手袋を編んで、私の分は、母の苦肉の策だったのでしょう。
赤と黒の縞々なんて、アニメに出てくる悪役みたいで、当時の私はちっともうれしくありませんでした。
それでも冬の寒い朝には、その縞々の手袋を付けて、登校しました。
雪が降って、雪だるまをその手袋で作っても、ちっとも染みないあたたかな手袋でした。
そのうち私の手も大きくなって、縞々の手袋は、キチキチに小さくなりました。
次の手袋は、確か「いとや」という衣料品店で買ったスヌーピー柄の入った緑の手袋でした。
その次の手袋は、私が母に作り方を教わって編んだグレーのボンボンを付けたミトンだったと思います。
今、私は、手袋とそして帽子の本を作っています。
正しくは手袋の本に載せるべき手袋と、帽子を編んでいます。
新しいデザインのものを作る時、毛糸は一本の糸ですから、みなさんに編んでもらいやすい編み図になるまで、何度も何度も解いては編み直します。
みなさんに、ご自身の、そしてご家族の手袋や帽子を編んでいただけるよう、生活に根差した、ご自身の生活を温めるような手袋を作っていただけるように。
生きる技術として、手袋の作り方を理解し、実践していただけたらとてもうれしいです。
25周年かもしれない
昨夜、風呂の中でふと、私が仕事をはじめて、ちょうど25周年になるのかもしれないと思ったのだ。
そのことをXに呟いてみると、私の投稿にしては思いがけず「いいね」をいくつもいただいた。
古い友人がコメントをくれ、千葉美穂においては引用リポストまでしてくれた。
めでたいことなのか。
物作りをしてる人には共通して、周年を考える間もなく、やっておられるような気がする。
お客さま商売なら別だ。たぶんお客さまへの感謝として、何かしらお返しをしておられると思う。
私の場合、看板を出した訳でもなく、まさかこの仕事で食べるとも思っていなかった。
はじめて私の編んだ手袋を人に買ってもらったのが1998年の暮れで、1999年明けから、その人の店に私の手袋が並んだ。
その人から、納品・請求書の書き方を教わり、プリントごっこと消しゴムハンコでタグを作った。
その人には今でも頭が上がらない。
今でも仲良くしてもらっている長野市のノーノ分室の光ちゃんだ。
この辺りのことを思い出すと、鼻の奥がジンとする。
今思うと、物作りで生きるデビューとしては、割と早かったのかもしれない。
それは図らずも仕方なし、弾き出されるスタートだったが、他を見る余裕もなかったことが、今となってはありがたかったのかもしれない。
先日の穂高 でのWSに参加くださった60代の女性に「編み物が仕事になったきっかけは何ですか?」と聞かれた。
その質問には、もう何十回と答えている。
説明するのも慣れた自分をいやらしく感じながら、短縮版で「東京で勤めていたが体を壊して実家に帰り、自宅療養がてら編んだ手袋を友達にプレゼントしたのが、セレクトショップのオーナーの目に止まり・・・」と、彼女の指人形を手直ししながら、口先だけで喋った。私だって本当はこの話を、いつでも新鮮な気持ちで話したいと思っている。
直し終え目線を上げ「はい」と手渡そうとすると、彼女はポロポロ泣いておられた。
慌てた。
何かが彼女の琴線に触れたのだ。
そうか。彼女が感じ取ってくださった何かに、私は深く感謝した。
彼女は溢れる涙を堪えるかのように口を真一文字にし「ウンウン」とうなづいた。
人生なんていうと大袈裟だが、人それぞれ様々なことを乗り換え、今を生きる。
彼女にも、病気の頃があったのかもしれない。長野では有名なフランス菓子店の店主さんだと聞いた。
私は、体を壊したことで、この仕事をすることになった。
周年なんてカウントする間もないまま、よくここまで来たものだと呆れながら、私は今日も作っている。
・・・この話の続きを書きました。
穂高から見える山々が田んぼに映る。
