HOLY'S BLOG

K君のこと(私が学生寮で学んだことvol.8)

1年生に2人いたK君の、ひとりのK君は、みんなから下の名前で「K」と呼ばれていた。
人懐っこい性格で、先輩からも可愛がられ、私のことも慕ってくれた。
毎回、受付の前を通る度、何かしらのアクションをするので、一度わかりやすく無視してみたら、「ひどいっ!」と本気で怒らせてしまった。
私はもう二度と、K君に意地悪をしない、と心に決めた。

 

某ハンバーガー店で、アルバイトを始めたと、K君が私に言う。
バイト先の名札には、赤い◯シールが貼ってあって、出来ることが増えると、青、緑、銀、金とシールが増えていくそう。九州出身の彼は、自分が最初にやるアルバイトは、そのハンバーガー店と決めていたんだと嬉しそうに話してくれた。

 

夏休みになると、帰省や旅行で寮生は少なくなり、寮内にものんびりとした雰囲気が漂う。
クーラーのない建物では、受付に置かれた扇風機すら貴重品となり、暑さにやられた寮生が変わるがわるに涼みにくる。
K君が扇風機に、テッシュがわりに置かれていたトイレットペーパーを細長く切って結びつけ、電気屋さんにあるみたいにヒラヒラさせた。より涼しくなると思ったのだ。
電気屋さんの細いキラキラしたテープとは違い、トイレットペーパーの細長いのがヘラヘラと舞っているのは、ただ卑猥にしか見えなかったけど、K君は満足そうだった。
ある朝、お腹を空かせて降りてきて「保里さんの好きな食べ物は?」と聞くので「オムライス」と答えると、私にぴったりだと言いはじめ「保里さんはオムライス」と達筆の文字で書いて、受付の壁に貼った。

 

K君は、お父さんを交通事故で早くに亡くしており、母子家庭だった。彼と親しくする同じ学部の先輩は「Kのお母さんは苦労している」と話した。寮の中では、両親の揃うことが当たり前だったのかもしれない。
K君のお母さんは、よく寮に電話をかけてきて、K君が不在なら「母親の携帯に電話をかけるように」と伝言を残した。
携帯電話がショルダーバックのような頃、お母さんはどんな仕事をしてK君を東京の大学に行かせるまで育てたんだろう。

K君は「あしなが育成会(交通事故遺児育成会)」の集いに行った時のことを、私に話した。皆が親を急に亡くしてからの苦労を泣きながら話す中、自分はあまりに幼く父を失くし、それが当たり前として育ったので、皆ほど泣けない。父親はいなかったけど、祖父母から十分に愛されて育ったので、不足感はないのだと言う。

 

いつかK君が、ボタンダウンシャツのボタンが取れたからと受付に裁縫道具を持参した。
「保里さんに付けてもらうのは、これが最初で最後。これからはなんでも、自分のことは自分でできるようになるんだ」と言い、ボタンを付ける私の手元を、焼き付けるように見ていた。

 

秋になり、私が膝丈のウールチェックのプリーツスカートを履いて行くと、朝1番に会ったK君が「わぁ、こうやって」と、くるっと回る仕草をした。あまりにも無邪気だったので、私も言われるままにくるっと回るとプリーツスカートが丸くフワッと広かった。
K君が「うわぁ」と手を叩いた。
私は、ドクターマーチンのレースアップブーツを履いていた。

 

 

お正月休みが終わって、年度末を迎える頃、私が別校舎から郵便物の入ったコンテナを台車に乗せて押していると、K君が向こうから歩いて来た。女の子と並んでる。K君は、楽しそうに話しながら私と目線を合わせずにすれ違った。
今まで校内で、どんな遠くからでも私を見つけ呼んでくれるのは、いつでもK君の方だった。
成長した弟が巣立つような気持ちで、私は後ろ姿を見送った。

 

私は今でも、好きな食べ物はオムライスだ。

ケチャップライスの中身は、いつも有り合わせで、野菜ばかりの時もあるけど、ご飯を盛り、オムレツを焼いて乗せる(もちろんフライパンの中で、オムレツにご飯を巻き込む時もある。)と、それはもう大ご馳走になる。半熟卵でご飯を包みながら食べる。そしてK君の「保里さんはオムライス」を思い出すのだ。

これは、タラコライスのオムライスで珍しくマヨネーズを乗っけた。このレシピにそう書いてあったから。K君の出身地もタラコが名物だった。

K君は、夢だったテレビディレクターになった。いつか九州発の番組を担当して、島津亜矢さんがゲストに登場した時、私はテレビを観ながら島津亜矢さんの似顔絵を描いて、K君に送った。