Hさんのこと(私が学生寮で学んだことvol.6)
Hさんは、Kさんと同室の4年生で、Kさんと同じダンス部に所属していた。
彼ら二人ともが下の名前で呼ばれていることに、寮内での彼らへの敬意を表していたし、彼らのダンススタイルの違いをも感じさせていたと思う。
この二人は、好対照のダンスを踊る。
Hさんのダンスも学祭で、私は見ることができた。ペアダンスだったけど、女性だけでなく、リードするHさんもしなやかで、まるで妖精のようだった。うっとりと眺めるには短すぎるプログラムだった。
彼の生活にはリズムがあったように思う。決まった時間に起きて、丁寧に顔を洗い、身支度をし出掛けていく。
彼も就職活動をしていなかった。
ダンスは、大学からはじめたと聞く。中高は、テニスでインターハイレベルの腕前だったそう。
背が高く痩せていて、顔が小さい。跳ねるように歩いた。
すれ違うと照れたように笑い、誰かと話すのを見かけても、いつも首を曲げながら相手の顔をのぞくようにして、少し笑みを浮かべ、穏やかだった。
Hさんとは、あまり寮の中では接点がなかったけれど、数年後、渋谷駅のホームでバッタリ会った。夜だった。
明るいホームなので、顔がはっきり見えたから「Hさん」と私から声をかけると、すぐに気づいてくれた。
私もHさんも、人と一緒だったので、頭を下げただけだったけど、Hさんが「〇〇バレエ団にいます」と言ってくれたのを、今でもはっきり覚えている。
すてきな笑顔だったし、またいつか、彼のダンスを見ることができるチケットのように思えたからだ。
もし、「ちいさな曲芸師 バーナビー」(再話・絵 バーバラ・クーニー 訳 末森千枝子 現代企画室刊)が舞台化されたら、バーナビー役には、Hさんがぴったりだろう。
ひとりぼっちで生きる少年バーナビーは、誰も外で曲芸を見たくなる冬の間、とうとうお金が尽きて、食べるものにも困るようになる。修道士に助けられ、修道院で寝泊まりするようになったバーナビーは、神様のためにできる自分の仕事は何かと考える。
自分にできる唯一のこと、それは、踊って跳ねて、宙返りをして、手品をして、曲芸をすることと思いつき、チャペルに通って毎日、マリアさまとイエスさまの前で、ひたむきにやり続ける。クリスマスを迎え、皆が神さまに贈り物をした後、その日も気絶するほど、バーナビーは曲芸を続けたが、とうとう修道士に見つかってしまう。
もうHさんは少年と言える年齢ではないし、背も高すぎるだろう。でも、あの渋谷のホームでのたった一言で、私には、Hさんのやってきたことが充分に伝わった。