Kさんのこと(私が学生寮で‥vol.5)
Kさんは4年生だけど、明らかに就職活動をしていなかった。
いつも昼頃に起き、まずシャワーを浴びに行き、ラフなTシャツとパンツを履いて出かけていく。髪は長く、切長の目をしていて、いつも大股で歩く。
私と話すことはほとんどなく、目が合うこともなかったけれど、すれ違う時、ブンと頭を下げて挨拶してくれた。
他の寮生と仲良くしてるところも見たことはなかったけど、誰もKさんのことを悪くいう人はいなかった。
Kさんは、ダンス部に所属していた。ダンスと言ってもコンテンポラリーダンスで、この大学のダンス部は、ちょっと一目置かれていたように思う。
一度学祭で、彼が踊っているのを見たことがある。
プログラム後半にKさんはサッと舞台に現れ、ソロで踊りはじめた。他の誰の踊りとも違っていて、筋肉が隆起し、弓のようだった。激しく繊細で圧倒された。
私にとって初めて見たコンテンポラリーダンスだったし、いつも私が見ているKさんは静かだったから、そのギャップに驚いた。
ある朝、Kさんに電話がかかってきた。
電話口で、その人が私にはっきり、「Kの父親です。おねがいします。」と言った。
ノックすると部屋はまだ暗く、何度か声をかけ寝起きのKさんを電話口に取り継いだ。
お父さんから「就職はどうする?」と尋ねられているのが、はっきりとわかる。Kさんはただ「しない」とだけ答える。
電話の向こうでお父さんが大きな声になる。
お父さんの問いに対し、Kさんの答える言葉の少なさが、誰に今、何を言われたところで、自分にはやりたいことがあって、進むべき道はもう変えられないことがわかる。
私の仕事は、次にかかってくるかもしれない電話に出ることで、その場を離れるわけにいかない。あんなにあの場にいたたまれなかったことはなかった。
本を開き、なんとか聞かずにすませたかったけれど、こんな時に限って他からの電話は全くなく、結局その会話を全部聞いてしまうことになる。
数日後、4年生がほぼ出払っている時間に、Kさんがチョコチップクッキーの箱ごとを持って現れ、受付の前で封を開けはじめた。
私は、彼の運動量ならチョコチップクッキー1箱分のカロリーくらい、すぐに消費しちゃうんだろうな、なんて考えていたら、Kさんがチョコチップクッキーの箱を私に差し出した。
「好きなだけ取ってください」
「好きなだけ」と言われても、変則的な生活をするKさんの、食事になるかもしれないクッキーを、好きなだけもらうわけにはいかない。
迷いながら2枚掴むと、彼は「もっと」という。結局5枚、ティッシュを敷いていただいた。
Kさんは、ちょっとうなづくようにして、その場でチョコチップクッキーをムシャムシャと食べはじめ、いつもの歩き方で悠然と部屋に戻った。
今になると、あのチョコチップクッキーは、お父さんとの電話を聞かざるを得なかった私へ、Kさんからの労いだったんだと思う。
Kさんは今、ヨーロッパでダンサーとして活躍している。