赤い仔馬
私の赤い仔馬がみつかった日。
私には、衝動的に物を捨てる癖があり、この赤い仔馬も捨ててしまったものと思っていた。
今朝、窓枠の間にポツンと横たわるこの赤い仔馬を見つけた。カーテンのタッセルを落としてしまったと覗き込んだ時だった。
窓なら、この間、何度か拭いているはずだ。
この赤い仔馬は、私の亡くなった友人のご家族から「働くセーター」出版の折、仕上がった本をお送りすると、祝いとして送っていただいた。
その友達は、20数年前、私が東京から広島に帰ってきて初めてできた友達だった。
彼女は8つ年下で、私たちは少しずつ仲良くなった。
私にとって彼女は、私の中の奥の奥に仕舞ってる宝箱をそっと開けて見せられる人だった。琴線に触れる、というのだろうか。
彼女とはよく一緒に互いに興味のある場所へ出掛けたし、私の東京での友達がこちらに来れば、一緒にお茶をするほど、仲良しだった。
けれど彼女は、彼女の持つ個性を世の中でうまく照合させられない自分を責め、ある時から病いとなり、亡くなった。
私は、そのご家族からいただいたこの赤い仔馬が見えなくなってから、随分と探したけれど、彼女とのことが悲しすぎて、見ると辛くなるからと思い謝って捨ててしまったのだろうと思い込もうとしていた。
それが今朝、ひょいと出てきた。
この赤い仔馬は、ダーラナホース[幸運を呼ぶ馬]。スウェーデン雑貨として知られているけれど、私にとって「赤い仔馬」は、スタインベックだ。
スタインベックは生涯を通して、アメリカの農場で暮らす労働者について書いた作家だけど、スタインベックの読書体験について語り合えたのは、私の伯父たった一人だった。
スタインベックの代表作は「エデンの東」だろう。私は「赤い仔馬」と「二十日鼠と人間」が好きで、その大作については、ジェームス・ディーンの作品の中では1番好き、という認識だった。(なぜか好きな作家の大作について、いつもスルーしているところがある。)
私は「スタインベックが好き」を誰かに話したことはなかったし、誰かと共有できるとも思っていなかった。古臭い米英文学が好きなのは、私の個性で、誰かに受け入れられるとも思っていなかったから。
私の根底に流れるのは、名もなき人の働く姿こそ、美しいと感じることであり、そこでこそ、地球とつながる経済が成り立つ、ということ。
神様の手のひらからこぼれ落ちそうな人の、しあわせについて考えること。光を見ることだと思う。
私は、この赤い仔馬を私の碑とし、携えていこう。
全くもってうまく言えてる気がしない。一介の編み物屋が何を言ってるんだか。