HOLY'S BLOG

お墓参り

11日に早々と、父方と母方と、父のお墓参りをしてきました。
車はないので、母と電車を乗り継いでのツアーです。
店も開いてない朝から、花を持って歩くので、250円なる豆灯篭を寺町で見つけ、買っておきました。浄土真宗安芸門戸ですので。
ローカル線を乗り継ぐので、お墓までの往復の時間と次の発車時間を逆算しながらの、なかなかスリル満点で、楽しいものです。
汗もたっぷりかいて、墓所の脇にある井戸水の美味しいこと。昔ながらのポンプ式井戸から、顔もじゃぶじゃぶ洗って、水筒に水も入れて、残りの道中に頂きました。

私の父方は、祖父が、私が小さな頃に亡くなり、祖母は継祖母ですのであまり行き来がありませんでした。
唯一の伯父が亡くなり、父も逝ってしまうと、父方のことはよく知らないままになってしまいました。
従兄弟のお兄さんから、兄が聞いたところによると、父には伯父であるすぐ上の兄の上に、長兄と姉がいたとのこと。

長兄と姉は、戦時中、学徒動員で、地元の呉から広島市内に出ており、8月6日に被爆、その兄と姉を探して実母だった祖母が、次の日に市内へ入ったとのこと。

長兄は8月12日16才、実母は昭和24年に6月17日に亡くなっていることを墓石で確かめました。姉は見つからなかったのでしょう。

父が亡くなってから、私は、兄と母と3人で、平和公園内にある原爆死没者追悼平和祈念館で、長兄である伯父の名前を探したことがあります。
それは兄や私にとって、縁の薄かった父との繋がりを探すことでもあったように思います。

学校ごとの名簿の、「は行」ばかりをひとつずつ見ていきました。あちらの棚、こちらの棚と、どれほど時間がかかったか。
伯父の名前はありました。

私は被爆3世というのか、2世なのか。
そして今更、そのことに気付いた自分が恥ずかしい。
父は、生涯、家族と深く関われなかった人だった。

今年、初めて8月6日の灯篭流しを見に行った。広島に生まれ育ちながらにして。

戦後70年ということもあり、世界中から人々が集まっていて、平和公園の周りは初めて見る、それは人だらけの光景だった。

そんな中、ふと一人の小柄な男性と、公園内の木立の中てすれ違った。まるで人目を避けるように。
そのマスクから見える表情の端には、肌の引きつれと、瞼の歪み、鼻の埋没が見て取れた。

ごめんなさい。見てしまいました。

あなたがこの70年、どんな風に生きてこられたか、考えただけで涙が出ます。

彼を前に、「戦争は終わった」なんて、私は言えない。