HOLY'S BLOG

八橋装院 その2

ショップ担当の方と話す母は、
前社長から前専務、退職された方々の様子を一通り聞いていた。
二代目の現社長になられたのは3年前で、お話から察すると、ショップ担当の彼も同じ頃から八橋に勤め始められたようだ。
社長一人では間に合わないので、彼が営業を一手に担っておられる。
「自分は営業専門で、服は作れないんですよ」と自嘲気味にお話しくださると、
「こんな所でミシンが使えんのは、肩身が狭いでしょ」とまで言っていた。

実はそれには、母なりの自責の念があり、
出産前まで、オーダー服のサロンで婦人服を作っていた母は、40歳を超えてからの再就職した八橋装院で、
それでも工業的なミシンの踏み方、生地の縫い合わせ方がどうしても納得がいかず、それ故にスピードにも乗り切れず、
ミシン場には、長くいられなかったという悔しさがあったからだ。自ら、配置換えを願い出たと言う。

当時の八橋は、婦人服では高級と言われるブランドの服ばかり作っていた。
それでもその縫い合わせが気に入らなかったとは、
母は、サロン時代に幾らの服を作っていたのだろう。

当時、既製服は「安かろう悪かろう」で、一張羅と言えば多くの人が仕立てていた時代だと思われる。
物価も違うし、デパート値段とも違うだろう。
母の当時の給料は、出来高制だったという。

母は、宝石こそ買いはしてないが、当時手に入れたというパーティバックや時計は、子供心にもそれは素敵で、お出かけに母が身につける姿を私は気に入っていたし、憧れていた。
そしてその時計は、今私が使っており、パーティバックは、時々拝借している。

手仕事ゆえ、決して高い給料ではなかっただろうが、それなりの腕を持っていたということか。

ミシン場から、アイロン担当、検品と八橋での母の仕事は移っていき、最終検品、小さな直し(生地のキズの直し、かけはぎのようなことも)最後はミシン場以外、何でもやっていたようだ。
出荷まで仕事が終わらず、帰りが深夜に及ぶことも何度かあり、心配になった私が会社に電話をし、前社長に「母をいつまで働かせるんですか?」と、思わず声を荒げたこともあった。六十も過ぎていた頃だ。

会社帰りのバイクで、あともう少しで家に着くって所で、後ろからトラックに突かれ、腰骨を粉砕骨折、3ヶ月の入院。
幸運なことに神経は守られ、その後も自由に歩けるようにはなったが、バイクには二度と乗らなかった。
バイク通勤で30分かかっていた八橋は、母としては辞めざるを得ず、
前社長には、「またおいで」と声をかけられていたけど、検品の立ち仕事にも自信が持てなかったという。
「服を分かる人がいなくなる」とも言われたことが、どんなにか母の慰めになったかと思う。

24年間勤め、67歳の引退だった。

八橋から母を帰りのバス停まで見送り、自分も自分のバス停で、待っていたのだけど、そんな風に母が勤めてた頃が思い返され、
三つか四つのバス停のためにバスに乗ることがバカバカしくなり、
目の前に待ったバスが来たにも関わらず、歩き始めてしまった。

実際は、バス停で五つ、結構な距離を歩いて帰ってしまった。
私は早く帰って仕事を少しでも先に進めなきゃなのに。
歩こう歩こう会か。

私のニットは、まだまだ母の服に追いついてない。