HOLY'S BLOG

ユズリハとユーカリ

今朝、思い出したことを書きます。

 

病院のフリースペースで、週一で編み物クラブをやっていたことは、にも書きました。

 

長く一緒に過ごしたスミエさんは、旦那さまの付き添いで、毎週、編み物クラブに参加してくださいました。

子供の頃から、と言われる牛乳瓶の底のような眼鏡をかけ、その奥に笑う小さな目は、まるでドリフのコントみたいに思えました。
くせっ毛のショートヘア、白髪染をなさっておられ、髪は豊かでしたので、年齢より若く見えました。

結婚して入ったお家では、義婆さん、義父さん、義母さんと、病気の人を常に看続けていたと言われます。

 

最初は、帽子ばかり編んでおられました。

徐々に、着るものも編まれるようになられ、手順を私が説明すると、鉛筆を握りしめ、目数や段数を書かれるのですが、ノートにグッと顔を寄せ、鉛筆でぐいぐいと書くのです。
お世辞にも綺麗な字とはいえなくて、器用そうでもありません。
私は、そこに6才の、一生懸命字を書く、小さなスミエさんを見るような気がして、愛おしく思えました。

田舎に住む年の離れたお姉さん二人の、曲がった背中を覆うことのできる、前身頃が短くて、後身頃の長いちゃんちゃんこを2枚、編まれました。

 

子供たちは巣立ち、旦那さまだけを診る生活になられ、やっと自分に目を向けられるようになられたのでしょう。

ピアノで「ドレミファソラシド」を弾くのが夢だと言われました。

私がノートの開きに、鍵盤大の大きさで、白鍵と黒鍵の絵を描くと、嬉しそうにその上に指を置かれます。

ちょうどその時、編み物クラブには、ピアノの上手な女性がおられ、スミエさんに「ドレミファソラシド」の指の運びを教えました。

スミエさんは、「ドーレーミーファッ、、ソラシドー」
「ドーシーラーソー、ファッ、ミレドー」
と声に出しながら練習します。

「小さいのでいいから弾いてみたい」
と言われるので、その日、クラブが終わると、3人で最寄りの電気屋さんに行きました。

小さな2オクターブ半のキーボードなら、5000円からありました。
そこでも、今度は音を出して、スミエさんは「ドレミファッソラシドー」を練習しました。

「娘に相談する」とスミエさんは言って、その日は別れました。

次の週、スミエさんは、娘さんを伴って、キーボードを手に入れたと、嬉しそうに報告してくれました。

「毎日練習してる」
というスミエさんに「チャレンジャーじゃね」と私が言うと、スミエさんは「チャレン婆よ」とイタズラっぽく笑いました。

 

それから、病院での編み物クラブがなくなって、前にもここで書いたヨシノさんと、みんなが元気な時に、同窓会のようなことをしました。
みんなで手を握り合って元気でいることを約束しました。

2度目は、なかなか叶わず、、みんなの年齢が重なり、外出がだんだん難しくなっていたんですね。。

スミエさんからいただく年賀状の「尚美ちゃんへ」と筆文字は、年々大きくなっていきました。

 

私は二度、スミエさんを訪ねたことがあります。

一度は、お留守でした。

小さな長屋の表札には、かつては大家族の、子供たちやご両親の名前が連ねられていました。

二度目に会えました。
ピンポンを押して、随分長い時間をかけて、スミエさんの引戸があきました。

大腿股関節骨折をしてから、動きにくくなったと言いつつ、かつての大家族が住まわれていた小さな長屋に、一人暮らしをされていました。

週2日のディサービスの他、ヘルパーさんの来られる日、リハビリに行かれる日と、スミエさんの毎日は、スケジュールでびっしりでした。

片づけられた玄関には、ディサービスで作られた工作や書が飾ってあります。

スミエさんは椅子に、私は玄関のたたきに座りました。

壁に詩のようなのが貼ってあり「これは?」と聞くと、
「自分の歌を作ってみたいってずっと思ってて、
これまで生きてきて思うことを、ディサービスで作ったのよ」と言われる。その歌詞なんだそうです。

私が「聴きたい」って言うと、スミエさんが歌ってくれました。
これまで生きてこられて、お父さん、お母さん、お友達にありがとう、感謝します、という内容だったと思います。

恥ずかしかったりすることなく、スミエさんは真剣に歌ってくださいました。

1番、2番で、終わったけれど、いつまでも聴いていたいと思いました。

それがスミエさんと会った最後です。

電話をしても、留守番電話だったのが、現在使われていない電話になりました。

 

 

スミエさん、ユーカリの木は、触るとさわやかな香りがしますね。
鉛筆を削った時の香りに、似ているかもしれません。