HOLY'S BLOG

働くセーターまでの道程

さて、頭に思い浮かぶ強い気持ちについて書こうと思う。こんな夜中に上手く書けるか、どうだろ。

ラジオの特番でスガシカオさんが名曲「progress」の歌詞についてお話していた。多くの人に感動と勇気を与えるなんて、これっぽっちも思ってなかったと。もしそのつもりなら「僕らは位置について」と、かけっこのスタートという小さなシチュエーションからなんて始めない。壮大な曲にするつもりなら、それなりの始まりというものがあるはずで、ということを話されていた。

手を動かしながら、ふと思い出したことがことがある。

「働くセーター」という名前がすごく良いと、何人もの人に褒めていただき、その訳を聞かれる度に「深い意味はなくて、名前を聞かれて初めて口にした」となんとも手応えのない答えばかり口にしていた。

けど思い出したんだ。

もう12年くらいか前になるだろう。ある方の紹介で、他県の有名なギャラリーのオーナーご夫妻とお会いしたことがあった。

若い作家として紹介してくださったのだろう。

作品を見ていただき、話を進めているうちに、私はギャラリー奥様から「デザインセーターを作りなさい」と言われたのだった。

編み機を使い、いろんな毛糸を使って。

私は何か違うと感じながら上手く答えられないでいたのだけど、その場に居合せておられた方に導かれ、自分のある確信にたどり着いたんだ。「私は労働着、仕事をするためのセーターしか作りたくない」と言うことに。

シェットランドヤーンの可能性も感じている、とも答えた。当時すでにシェットランドヤーンを引き揃えて編む手袋やルームシューズを作っていた。毛玉になりなくく、引き揃えるとまた違った魅力を見せるこの糸以外考えられなかった。

デザインセーターだけは作りたくないと言う思いから、気付かされたその思いは確固たるものとなった。

フェアアイルやアランセーターなど作り続けたが、どれも形はベーシックで長く着られる形ばかり。立体感にこだわった。

 

私は、社会福祉専門学校と言う実に地味な学校を卒業した。私が在席した保母科のクラスメイトの就職先がいわゆる「保育士」にとどまらず、肢体不自由児施設や作業所に就職する人、児童館、公立保育所に勤める人、児童養護施設とさまざまで、さらに福祉科となると老人ホームとなるのだった。

そして私の卒論は、「教護院(非行少年の矯正施設)」についてだった。私が非行少年だったかというと、所在の無さは紙一重でレイヤーだった。

友人と話したことがある。

要は「何にシンパシーを感じるか」なのだ。

体に不自由のある人にシンパシーを感じる人は、その専門施設に保母として就職するし、家庭がいわゆる普通ではなく、マイノリティとして育った友人は、児童養護施設に長く勤めている。自分が何に身を捧げられるかは、自分にとってのシンパシーの感じ所なのだと。

ギターの音色に魅せられ一体となってしまった人がギターリストになるのと同じで、恋に落ちるのも、相手の何かに共鳴してしまったから。

私がデザイナーなら、ドレスだって作るのだろう。作らないと言うことは、私がデザイナーより作り手であるからだ。

一昨年末の「ゴフスタインと私」展をリーダンティートで行わせていただいたのだって、本屋のあるギャラリーというだけでなく、民藝の器を扱っておられたことが、私にとって大きい。

編み物が、工芸、craftにカテゴライズされないのは、ヨーロッパにおいて「女子供の「手慰み仕事」としてみなされたからだ。工芸は、ある程度の量産を目的としている。

しかし、アラン島やサンカ手袋のサンカ地方は、もうそれしか生きる術がなかったから、編み物に商業を見出したのだ。

私も同じだった。体を壊し、うちに帰らざるをえなくなり、始めた編み物は、半径30cm有れば事足りて、道具だって数千円有れば揃うってもの。だからこそ続けられたのだ。

着るものを作ってるってのに、裁ち鋏すらいらない。その小ささは、私にできる精一杯のことだった。体を壊したって、食わなければならないことに変わりはなかった。

それから、そんなギャラリーオーナーとの一件も経て、何度かの展示会、そして働くセーターへと。量産できない量は本となって、働く人々へ、身近な方々が編む。

海の男のガンジーセーターと一緒じゃないか。

私は洋服が三度の飯より好きだけど、着飾ることに興味はない。働くことにシンパシーを感じる。だから、労働に耐えうるセーターを作る。