お花屋さん、最後の営業日
近所にある大好きな花屋さんが、今年中をもってお店を終えられると知ったのは、12月初旬、仏花を買いに寄った日のことだった。
花を包んでもらいレジが終わると、奥さまから1枚のポストカードが差し出され「今年いっぱいで、店を閉めることになりました」と告げられた。
それまで言いはしなかったのだが、その店のショップカードは、私の友人でもあるイラストレーターの手によるもので、差し出されたポストカードも彼女が手がけたものと、すぐにわかった。
その店のことは、最近ここでも書いたばかりだった。
事前に予約する祝い花なら、花屋の友人に依頼し、不意に花を持参したい時には、この店に大抵寄っていた。
いつもこの店のセレクトが自分の好みとピタリと合っており、季節の山野草も並んでいたので、店を出る頃には、予想以上に満ち足りた気分になった。不意であっても、いつも友人に贈る花を本当に気に入って、鼻高々な気持ちで持参した。
自宅の仏花は、ごく近所のスーパーで食料調達のついでに購入していた。
この花屋さんで購入しても、その時に好きなひと枝を買い求めるならば金額の大差はなく、ほんの少しだけ足を伸ばすだけなのだからと、もう仏花もこれからはここで買おうと心に決めた頃だった。その方がよほどか心が満たされる。
そんな矢先だった。
店先で、私はひどく落胆したが、そもそもその店の上客でもないので、感情を飲み込んで、その日は店を後にした。
店じまいを前に、なんとかもう一度、訪れたい。
この間、来訪の友人からいただいた花もあり、途切れなかったのだが、どうしても気になった。
先週、自転車を走らせると、その日はあいにく定休日だった。花の受け渡しのために、宅配便のやり取りをちょうどしておられるようで、店には灯りも付いていた。
ドアの「ご予約のお客さまが立て込んでいるため、お待たせするかもしれません」という張り紙を読んだ。
やはり、通い詰めたお客さまがたくさんおられて閉店を前に、その店のアレンジを求めたい方の対応に追われているのだ。
「今年いっぱい」が胸に引っかかる。
私自身は、年明けの新しい企画の準備に慌ただしくしていた。
やっとうちでしっかり仕事ができる、という昨日、ふとその店を検索してみたら、営業は今日まで、とのことだった。
30年場所を変えながら、続けられたその花屋さんは、SNSの更新は控えめで、でも常に同じ温度で言葉少なく、淡々と投稿が並んでいた。
店じまいをお知らせするポストには、私の友人も、コメントを寄せているのが目に入る。
私は、また自転車に乗った。
もう花は、終わっているかもしれない。買えなくても良い。
行かなかった自分を後悔すると思ったからだ。
店の前に着くと、ご近所と思われる女性が、自宅用の花をちょうど手にして店を去るところだった。
店内には、お友達と思われる女性が数人、おしゃべりをしておられる。
この静かな佇まいに、はじめて見る光景だった。
奥のガラスケースは、すっかり花がなくなっており、予約と思われるアレンジメントがひとつだけ、注文主を待つかのように準備されている。
手前の季節の花のコーナーに、少しずつだが、お花が残っていた。
お店を入る前に、私は財布の中身を確認していた。珍しくちゃんと入ってる。
この光景を目に焼き付けるように、私は丹念に花のひとつひとつを眺める。
いつもは寡黙なご主人が今日は心なしか、穏やかに対応してくださる。
店を終うことに、安堵の気持ちがあられるのかもしれない。
私は気になるお花や緑のものをいくつか思うままに、ひと枝ずつ選んだ。
ご主人がいつものように手早くまとめてくださり、枝先にお水を含んだペーパーとビニルを巻き、白い紙で包んでくださる。
「ありがとうございます」の後、
「良いお客さんではなかったけれど、本当に好きでした」とだけ、私は、おふたりを見ながら口にしていた。



