届かなかった思い
今日の編み物クラブも、年代の幅広く、和気藹々と、いろんな話に飛びながら、終わりの時間を迎えていた。
70代のミツコさんがフェアアイルベストに挑戦されておられる。
私がゲージから計算するベストそれぞれの箇所の目数と減目の割合について、説明しながら計算機を叩き、それぞれの数を出し終えると、「今の、録音しておけばよかった」と仰る。
ミツコさんは、コーラスを習っておられて、レッスンの録音が日々の個人練習に役立つから、私の説明も録音を聞きながら、改めて数字を確認できるようにすればよかったなと言われるのだ。
ミツコさんは、他にもミニテニスも通っておられるとのこと。
ミニテニスとコーラスと編み物。そしていつも編み物はどんどん手掛けておられる。
他の方が、それだけ多趣味でおられるのに、なぜ編み物を進めることができるのか?と質問すると「今は時間があるから」答えられる。
ミツコさんは、かつて保育士で園長さんまでやられた方で、ご自身の子供さんも兄弟で育てられたので、時間の使い方は、私たちより上手だと確信する。
つい私が「園長さんまでやってこられた方だからね」と話すと、みんなは彼女のテキパキした受け答えを常に見ているから納得する。
ミツコさんは「あの頃の忙しさに比べたら今は・・・。仕事もだったけど、うちに帰ってからが忙しく、帰るなり夕飯に取り掛かって、バタバタと家事をこなして・・・」と、その頃の慌ただしさをお話してくださる。
その時の、私は思い出していた。
私の母もずっと仕事を持ち、家事をこなしていたことを。私が中学に上がる頃には、母の帰りがあまりにも遅いので、夕飯作りは私の仕事になっていったが、高校になると私はバイトに精を出していたので、家事はおろそかになった。
そして私がうちを出て県外で一人暮らしを始めると、母と社会人となった兄との2人暮らしが始まったんだ。
兄は早朝から仕事に出て、弁当は母が前夜のうちに作っておく。兄はその弁当を持って、仕事に出かける。程なくして母も仕事に出掛け、夕方、兄が先に帰ることもあったし、ほぼ同じ時刻に帰ることもあったという。
外仕事だった兄は、今みたいな夏場だと、まずシャワーを浴び、汗を流したという。
母は帰宅するなり、自分も汗まみれでも、夕飯作りに取り掛かったという。
兄がシャワーを浴びることを、母は恨めしく思ったようで、「アンタはいいよね」みたいなことを嫌味でも小言にも取れることを兄に言ったことがあり、
兄は、母もシャワーをまず浴びたら良いと答えたという。
母は、自分はとにかく夕食を作らなければならないと言い、その時、2人はケンカになり、数ヶ月兄は、夕食を取らなかったという。
私にはわかる。
兄は、母にシャワーを浴びて欲しかっただけで、夕食を作ることを第一にしなくても良いと思っていたことを。
母は、息子と自分のお腹を満たすために、何がなんでも夕飯作りを自分に課していたことを。それが自分のやらなくてはいけないことだと頑なに思っていたこと。それが昭和の母親の姿だったことを。
必ずそうしなくても良いということすら、母の頭には、全くなかったということもわかるのだ。
兄が冷たかったわけではない。
2人っきりの生活の中で、風穴が開きにくかっただけなのだ。私が家を出ていた8年間、うちのことは、兄に任せっきりだった。
私が実家に帰ってからは、私が夕飯と弁当のおかずを作るようになり、母は、それらのことを私に悪いと思ったのか、夕飯後の片付けは、どんなに自分が疲れていても私にやらせなかった。
夕飯を食べ終わると、座った形のままコクリコクリと10分くらい頭をもたげ船を漕ぐと、猛然と立ち上がり後片付けをしていた。
全て終える頃には9時半か10時を回り、それからアイロン掛けなどをしてやっと眠りに着くのだった。
昭和の母は、家事仕事は、自分がしなければならないことだと頑なに思い込み、身を粉にして動き回っていた。その母に育てられたのが、私たちの世代だ。

ミツコさんのお話を聞きながら、母の姿を、兄と母がケンカしたことを思い出し、その話はうまく話せそうにないと諦め、
私はその時、仕事で知り合った30代の女性達が、夫婦で家事を分担し仕事もこなし続けていることに関心している、といった話にすり替えてしまった。
なぜ口から出る言葉は、思いとは違う方向へ、私達を動かしてしまうんだろう。
クラブが終わった後、もっと話の仕様はなかったのかと、気持ちが沈んでしまい、
ミツコさんに「今日もありがとうございました」とメールを打った。
ミツコさんが仕事からの家事が大変だったとの話の時、私は自分の母のことを思い出していたんだと、心残りだったことを詫びるでもなく書いてみた。
それはただの自己満足に過ぎない。自分も昭和の母に育てられた1人で、母という生き物の動かし難いやるせなさへの、懐かしさだったように思う。